装束製作裏話
伎楽の装束についてNHKの堀田さんから話があったのは一昨年(1980)の夏のことである。
その少し前に東大寺から大仏殿の庭を飾る幡の制作の依頼があり、大幡二流、庭幡二十流の生地の選定、図案、染法などの準備にとりかかっているときであった。幡製作だけでも一年では不足で、二年ははしかった時で、伎楽装束は無理である。
しかし伎楽の復元もこの機会を逃しては後々出来るものではない。一世一代の仕事と自分にむちうつ思いで引き受けたものの、その無理は先づ幡の方から始まった。 大幡は164センチ巾の麻が必要で兄の堅二が飛天を画くために手織が要望された。小巾での試織は出来たが、大巾は思うもの織れず、一方庭幡は夾纈(板締染)の面積が広いために失敗が続き、大仏殿の巨大さにバランスのとれたものを製作する困難さに心身共につかれはてて、見透しがついて作業が進行し始めたのは5月を過ぎていた。
そのために伎楽の方に進み始めたのは6月に入ってからで4ヶ月で仕上げねばならない。染場は幡の染で手一杯で7月中頃迄待たねばならない。
特殊な染であるため、他に頼むことも出来ない。
その中にネパールから伎楽面が届いたが、これが又間違っている。正面からの写真だけを見て造ったらしく、能面のようで頭から被る伎楽面ではない。
泣くにもどうすることもできない、とにかく発泡スチロールで頭の型を造って和紙を張り合わてヘルメットを作り、それに面を接着して後頭部をかさあげして補修する。これが又、糊が簡単に乾かない。赤外線ランプを使用してやっと能率をあげた。
その中に幡の染が終ってようよう衣装の染である。7月も半を過ぎている。
役柄と装束一覧表丈でも4メートルの壁面を埋めている。その中に色見本を張り附けて配色をきめて、染めて行く、染上れば直ぐに仕立にかかる。近所の人達や朝日カルチャーのお弟子さん達も協力して下さって、毎日戦場のさわぎである。
昼間は指図に追われて疲れ、早寝して夜中の三時頃から思案する。
奈良の博物館に復元されているものとは一味異った自分好みのものを造り出したい欲もある。
法隆寺、西大寺等の古寺の資財帳を手掛りに工夫を加える。予定変更も出てくる。とにかく仕事は軌道に乗って行くが、獅子の面と装束が問題である。
ネパールの獅子はどうにもならない。仏師の江里さんに頼み込んで製作をお願いする。
また衣装の制作が一苦労である。
お神楽の節子の様では困るし、あく迄天平の気分を出したいのである。頭の中には浮かんできても製図すると気に入らない、結局若い人を二人立たせて前者は面を被り、後者をかがませて、色布をあてがっては重ね合せ何度もピンで止めて配色を考えてようよう決めた。紐こ附けた鈴の調子、面下の被り物、尾の附け方、毛の長さ等を順次きめて行く。
肝心の中に入って舞う二人のことも考えねばならない。勘にたよって造ったが以外によく出来て嬉しかった。
又装束の寸法も天理大の学生さんは背が高い。天平時代の寸法ではどうにもならない。 平均身長180センチを目安にした。履物も28センチに合わす、8月から9月にかけて我が工房は幡仕立チームと伎楽仕立チームに別れて続々と制作が進むが今度は出来上ったものの置き場所に困った。
大幡は東大寺戒壇院で仕立てさせてもらった。我が家では長さメメートルを越す幡は狭くてどうにもならない。10月7日の試し吊りである。
無事幡は上ってホット一息つく隙もなく今度は11日衣装合わせが迫ってくる。
木下サーカスの使う傘や面の仕上の残っているものもある。酔胡王の錦の選定も迷って遅れている。混乱の中にも多くの人達の協力を得て衣装合わせに漕ぎつけた。東大寺の広間は装束で埋まった。一箱ずつ仕分けた筈なのに、方々で間違いが起こる。一息つく間もなく、東儀先生に肝心の獅子に牡丹の花がないといわれて驚く。徹夜の制作である。
やっと、リハーサル本番に間に合う一幕もあった。
さていよいよ17日の本番である。着付が終って、緊張の中に行道が始まった。リハーサルの日より一段と立派である。伎楽再現に努力された諸先生方のおかげで、幻の天平の絵巻が展開されて行くのを見て、爽やかに過去の苦労が消え去った。
(大阪芸術大学教授)
天理大学雅楽部 「伎楽と雅楽」パンフレットより 1981年