まぼろしの「伎楽再現」


ヒマラヤの奥地では、たいこの胴に使う木の切り出しが始まった。イスタンブールでは、笛師が古い竹を吟味する。ソウルでは、古い衣裳の虫干しが行なわれ、カトマンズでは、正倉院の仮面をモデルに粘土の型が作られていた。東京ではサーカスの綱わたりの人たちが、斜めにはった綱をわたる工夫をこらしていた。一昨年十月始めのことである。
  東大寺大仏殿屋根の、七年の歳月と五十億の巨費をかけた昭和大修理の完工を一年後に控えて、私たちはかねがね連絡をとっていたヒマラヤの奥地やイスタンブール、ソウル、カトマンズなどへ手紙を出し、電報を打ち、電話を入れて協力を依頼した。
  東大寺側の話では、天平、鎌倉、元禄、明治に続く史上五度目の今回の大法要は、千二百年前の天平勝宝四年に行なわれたあの大仏開眼法要にすこしでも近づける試みをしたいということであった。
  記録によると、聖武太上皇の下で行なわれた天平の法要は、色あざやかに飾り立てられた大仏殿の庭で、唐楽、高麗楽、ベトナムからの林邑楽などの雅楽が、つぎからつぎへと終日上演されて、あたかも極楽浄土を目前する思いがした、という。
  なかでも、当日のハイライトは、シルクロードを通って西域から伝わった仮面舞踏劇の「伎楽」だった。異国の調べに乗って、仮面の演ずるこっけいなパントマイムや、思いきった軽業芸は、満場の笑いと雷のような拍手を呼んだという。
  私たちは昭和大修理の本格的な工事が始まる前から、この工事の完工を祝う落慶法要の舞台で「伎楽」を復元したいと考え、当時のお寺の庶務執事、新藤晋海さん、東京芸術大学の小泉文夫さん、南都楽所の笠置侃一さんなどと、おりにふれて相談を重ねていた。
  調査を重ね、文献をあたるにつれて「これはたいへんなものにとりついた」という感が深くなって来る。現在残っているのは、伎楽の面が正倉院、東大寺、法隆寺に、衣裳の残片が正倉院にあるだけで、曲譜も振り付けの資料も何もなかった。また、仮面が残っているからと言って国宝を借り出して使うわけにも行かない。伎楽を上演しようと思うと、仮面から始まって衣裳、楽器、小道具類から、伎楽曲、振り付けまで、全て記録を調べ文献にあたって復元、再現する必要があった。
下調べがついた段階で、仮面、楽器、衣裳など、その技術を今も伝えている職人に、こちらの指示通り造ってもらうことになった。仮面は今もラマ教の仮面舞踊劇(マニリンドウ)の面職人に、衣裳はソウルの雅楽衣裳の職人に、笛はイスタンブールの笛師、腰鼓は同じ種類の鼓をつくっているヒマラヤの鼓師に、それぞれ依頼してまわった。
  半年たって、韓国は巌ぎが起って駄目になり、一時は企画をあきらめかけたところで、大阪芸術大学教授、吉岡常雄さんが助けて下さることになった。仮面は、まず見本が送られて来たうえで、第一便二十五個が届き、そのまま彩色のために書岡さんの工房へ入った。ところが第二便の十個がいくら待っても来ない。調べてみると、その面師は脱税で静一便を出したあと、牢屋入りをしていることがわかった。その面師の早期釈放を各方面から陳情したが、らちが開かず、やむなくその弟子筋の面師に再依頼することになった。
  腰鼓の方も「寸法通りつくった」という電報が来たなりで、いっこうに現物が来ない。現地に人を送って調べてみると、胴は出来たものの「かわ」がまだはってなかった。胴と皮は職人もかわれば、カーストもちがい、お互いに交渉がないため、どうしていいか分からず、そのままになっていたのだ、という。
  イスタンブールの笛も、音程がむつかしく、結局雅楽の竜笛をそのまま使うことになった。
  仮面の第二便とたいこの胴が届いたのは、東大寺落慶法要の舞台げいこの前日だった。その間に、ヒマラヤに洪水があり、ダムが破れて、停電が何日も続くというアクシデントで日本に荷物がつかなかったためだった。腰鼓はヒマラヤの胴に、日本の皮と調べをつけて完成までこぎつけた。仮面は、第二便は使えず、「獅子」と「酔胡王」は仏師の手を借りて木彫りで仕上げ、あとは布作面でおぎなった。綱わたりは、斜めに登り、そのままの姿勢ですべりおりるという「芸」が完成した。
  吉岡常雄さんの衣裳、芝祐靖さんの曲、東儀和太郎さんの振り付けは、とほしい資料からの再現だけにそれぞれにたいへんな御苦心だったが、それはまた別の「物語り」である。
                (NHK教養科学部 チーフ・ディレクター)

天理大学雅楽部 「伎楽と雅楽」パンフレットより 1981年